Tuesday, September 13, 2011

9/11 NYC & 3/11 JPN

いつものように荒々しいスピードでフル回転していたニューヨークシティーが悲しみと涙の荒れ地となってからまる10年がたつ。まるで二つの核爆弾を大陸の心臓部に落とされたかのように街は崩壊され、人々の究極の悲しみの輪は放射能のように日に日に深く広がっていった。消防署や病院の壁には恐ろしいほどの数の写真が「ミッシング」と貼られ、その下の無数に置かれている花とキャンドルが悲しく写真を照らしていた。14ストリートから南は一般人にはオフリミットとされてしまい、そこにあるユニオンスクエアーは絶望に満ち悲嘆する人々やキャンドルでゴーストパークと化され、その状態が何カ月も続いた。一年以上もたった後に、そのパークのコンクリートを全部掘り起こし何週間もかけ新しくしたのは、数えきれないほどのキャンドルが溶けたワッ
クスをとりのぞく作業だった。何十センチにも盛り上がったワックスの床は、人々の「消えない涙」のように感じたのが心に強く残っている。
自分の夢に向かって頑張っていたアーティストたちは完全に仕事を失い、もっと過酷な「サバイバルの日々」がはじまり、生きていくためにみんな心を一つにし助け合う日々が永遠と続いた。国に帰る者や次の大都市、ロスアンジェルスに引っ越していく者がその後今現在続いている。2001年9月11日以降、古き良きニューヨークは、「9・11サバイバー」には決して戻ってこない。

そして9.11からちょうど9.5年後の、日本の天災「3.11」。「テロリズム」と「天災」は全く違うように感じるが、無数の罪のない人々が一瞬にして命を失った事実は同じである(戦争や放射能の話をここでするつもりは全くない)。
この母国の悲しい事件は当時ニューヨークにいたため、アメリカ側からの情報に頼るしかなかった。自分の母親は岩手出身のため、よく夏休みになるとお世話になった親戚や知り合いのことが心配となった。すぐに帰宅し日本に電話
をすると、全くつながらない状態だった。自分にとっては一瞬、「9.11」の恐怖感があふれ出てきた。一日一日と犠牲者の数が増えていった。ひたすらニュースを見て、ひたすら犠牲者の数が止まるのを願うことしかできない状態だった。


そして今自分は東京にいる。ここにいると「3.11」は本当に起こったのか?というほど平和であるが、親友が被災地にいって撮ってきた写真は「異国の荒れ地」にか見えなく、はじめてその恐ろしさを実感した。今月は、自分にとってとてもリスペクトする日本のフォトグラファーの人と東北に行き、自分の目で現在の「悲惨さ」をしっかりと見つめ、犠牲者の人たちに少しでも助けができるようにと計画している。

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